宇都宮市の歴史

  • はじめに 

    今の宇都宮市は、たくさんの人が暮らすにぎやかな町ですが、その土地の歴史は何億年も前の地球の時代までさかのぼることができます。

    ここでは、宇都宮市の土地がどのようにできてきたのかを、紹介していきます。

    宇都宮市の歴史は、現代の都市形成にとどまらず、はるか太古の自然環境の変遷や人類活動の痕跡にまでさかのぼることができます。本稿では、地球規模の地殻変動や日本列島の形成、さらに宇都宮地域における人類の生活の始まりまでを、年代を追って紹介します。

    ◆ 約2億2000万年前:動物の中で哺乳類が生まれはじめた

    • このころ、地球には「パンゲア」というひとつにつながった大きな大陸がありました。

    • 「アデロバシレウス」という、今のネズミのような小さな動物があらわれました。これが、のちの哺乳類(ほ乳類)のもとになったと考えられています。

    • 宇都宮地域も、この頃はまだ現在の日本列島としての形を成しておらず、海底または大陸縁辺の地質活動の一部を構成していました。

    ◆ 約6550万年前:恐竜がいなくなり、小さな動物が生きのこった

    • とても大きな隕石が地球に衝突、火山活動、気候変動により、非鳥類型恐竜がいなくなった時代です。

    • その後、小さな動物たち(ほ乳類)が元気に生きのこり、たくさんの種類に分かれ生態系の中核を担う存在へと進化します。

    • 宇都宮の土地では、このころに火山の灰や小さな石がたくさん積もりはじめました。これが、後に「大谷石」という特別な石になるもとです。

    恐竜絶滅直後には、キモレステスなどの小型有胎盤哺乳類が広がり、のちの霊長類・齧歯類などの進化につながる基盤を築きました。

    ◆ 約2400万年前:火山のはたらきで大谷石ができた

    • 日本列島の本格的な地質的独立が進み、火山活動が活発化した時期です。

    • 宇都宮市周辺では那須火山帯に由来する火山灰や石のかけらが地面にたくさんたまっていきました。

    • それが長い時間をかけてかたまり、「大谷石」という、緑色っぽくてやわらかい石の地層が形成されました。

    • 大谷石は、後の江戸〜明治時代にかけて、蔵(ものをしまう建物)や教会のかべなどの建材として広く利用されました。

    大谷石は淡緑色を帯びた軟質凝灰岩で、加工のしやすさと断熱性に優れています。特に江戸期以降の「石の街・宇都宮市」を象徴する建築資材として重宝されました。

最古の哺乳類アシロバシレウス

神話を除いてたどる、日本の建国までの道のり

  • 日本の歴史 

    神話ではなく、史料と考古学でたどる「日本という国家が形になるまで」

    はじめに:日本の「建国」は、宣言ひとつで決まったわけではありません

    日本の歴史は、ある日突然「国ができた」と宣言されて始まったわけではありません。 古い時代の日本列島には、地域ごとにさまざまな勢力(小さな「国」)が存在していました。それらが交流・対立・連合・統合をくり返しながら、長い時間をかけて「ひとつの国家の形」へと近づいていったのです。

    そのため「建国」という言葉も、何を“国の成立”とみなすかによって見え方が変わってきます。このページでは、神話的な物語は一旦ひもとき、できるだけ史料(中国などの史書)・考古学(遺跡・古墳)・制度史(法律や行政)にもとづいて、日本が「国としてまとまっていく流れ」をわかりやすく整理します。

    本ページにおける「建国(国家の成立)」の3つの段階

    ここでは「建国」を、以下の3つの“段階”として捉えます。(日本は段階的に国家へと成長したため、どれが正解・不正解というものではなく、視点の違いとなります。)

    A:連合の成立(外交史料に見える段階) … 3世紀(卑弥呼の時代)

    B:統合の進行(考古学で見える段階) … 3世紀後半〜6世紀(古墳の広がり)

    C:国家の完成(制度で見える段階) … 7世紀後半〜701年前後(律令国家の誕生)

    年代表で見る:小国の時代から「日本」という国家へ

    【約4万年前】旧石器時代:列島に人の活動が確認される

    一言:国より先に、人々の「暮らし」がある

    解説: この時代はまだ国家ではありません。人々が狩りや採集をし、石器を作り、集団で暮らしていたことが遺跡から分かっています。「歴史のスタート」は、まず人々の生活が営まれることから始まります。

    【縄文時代】定住が進み、地域ごとの文化が厚くなる

    一言:村が育つと“地域の個性”が生まれる

    解説: 縄文時代は、狩猟採集が中心でありながらも定住が進み、土器や祭祀(まつり)などの文化が発達しました。これがのちに、列島各地で多様な社会が形づくられる土台となります。

    【弥生時代】稲作が広がり、小さな「国」が生まれやすくなる

    一言:米づくりは“政治”を生みやすい

    解説: 稲作が広がると人口が増え、田んぼ・水・土地の管理が重要になります。すると村どうしがまとまり、地域ごとに首長(リーダー)が生まれ、小さな政治集団(小国)が成立しやすくなります。この段階の「国」は、今の日本のような全国規模の国家ではなく、地域単位のまとまりです。

    【57年】(後漢)列島の勢力が「外交」に登場する

    一言:この頃の“国”は、列島の一部の勢力

    解説: 北部九州の勢力が中国(後漢)へ使節を送った記録があり、金印(「漢委奴国王」)を授かった話が有名です。ここで大切なのは、「日本」という国ができたというよりも、列島のある地域の勢力が、東アジアの国際関係の中に姿を現したという点です。

    【2世紀ごろ】「倭」の王が中国へ使節を送った記録が見える

    一言:列島は“いくつもの勢力”が並び立つ時代

    解説: 中国の史書には、倭(わ)の国々が朝貢(使いを送る)した記事が見られます。ただしこの時代は、列島がひとつの国家として統一されていたわけではなく、複数の勢力が並び立ち、連合したり争ったりしていたと考えられています。

    【3世紀】卑弥呼:争いの後に「連合」が成立する

    一言:全国統一ではなく、“連合のまとめ役”

    解説: 3世紀の史書(魏志倭人伝)には、争いが続いたのち、卑弥呼が女王として共立され、外交によって権威を得たことが記されています。ここで重要なのは、卑弥呼の政治が「全国統一国家」というより、多くの小国がまとまった“連合”に近い仕組みだった点です。

    【補足】卑弥呼は「九州」か「近畿」か? 卑弥呼(邪馬台国)の所在地については、今も大きな論争があります。

    ・九州説: 九州北部に中心があり、近畿の勢力とは別だったとする見方。

    ・近畿説: 近畿に中心があり、のちのヤマト中心勢力へと連続するとする見方。

    結論は一つではありませんが、どちらにせよ、3世紀が「列島がまとまり始める大きな節目」である点は共通しています。

    【3世紀後半〜6世紀】古墳時代:統合が「見える形」で進む

    一言:古墳は“人を動かす力”の証拠

    解説: この時代は文字記録が限られる一方、前方後円墳などの古墳(特に巨大古墳)が全国に広がります。巨大な古墳を築けるということは、大量の人手と物資を動員できる中心権力が育っていたことを示します。各地の有力豪族が結びつき、畿内(ヤマト)を中核とした政治勢力が強くなっていく流れが読み取れます。この段階の支配者は、のちの「天皇」というより、一般に大王(おおきみ)などの呼称で語られることが多い時代です。

    【7世紀後半〜701年前後】制度としての国家が固まる(律令国家)

    一言:法律・役所・国号がそろって“国家の形”が完成に近づく

    解説: 国としての姿がもっとも分かりやすくなるのは、制度(法律・官僚制・行政区分)が整う時代です。東アジアの国際的な緊張状態も背景に、日本列島では中央集権化が急ピッチで進みました。

    • 7世紀後半: 支配者の称号が「大王」から「天皇」へと移る流れが強まる。

    • 701年(大宝元年): 大宝律令の成立(法と行政の骨格が整う)。

    • 7世紀末〜8世紀初頭: 「日本」という国号が対外的にも定着していく。

    ここは、神話を除外して「日本という国家が成立した」と説明しやすい、もっとも明確な節目と言えます。

    まとめ:神話を除外した「建国」は“段階”で理解するとわかりやすい

    • 3世紀: 連合が成立し、外交史料に「まとまり」が見える。

    • 3世紀後半〜6世紀: 古墳の広がりなどから、統合の進行が読み取れる。

    • 7世紀後半〜701年前後: 法律・役所・国号が整い、制度としての国家が固まる。

    日本は「点(小国)」から始まり、時間をかけて「線(連合)」になり、最終的に「面(制度国家)」へと発展した――この理解が、史料と考古学に沿った見方です。

  • 宇都宮市の歴史

    下野国・宇都宮が「日本」という国家に組み込まれるまで(そして“東の要所”へ)

    はじめに:宇都宮市は「東の入口」に近い場所

    宇都宮市(現在の宇都宮市域から下野北部にかけて)は、古代の地理感覚で見ると、畿内(ヤマト)を中心とする勢力圏と、東日本・東北の多様な勢力圏のちょうど「あいだ」に位置していました。

    言い換えると、宇都宮市周辺(下野国)は、西の政治体制と東の世界がつながる重要な拠点になりやすい土地だったのです。このページでは、神話ではなく、実際の遺跡や古墳、行政制度の整備の過程から、宇都宮が「独自の地域社会」から「国家の一部」へと変わっていく流れを整理します。

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    年代表で見る:宇都宮が“国家の一部”になるまで

    【約5500年前】縄文時代:宇都宮に大規模集落が成立する

    一言:宇都宮には早い時代から“まとまった暮らし”があった

    解説: 宇都宮市上欠町の根古谷台遺跡(ねごやだいいせき)は、縄文時代前期の大規模な集落跡として知られています。住居跡だけでなく墓域(お墓のまとまり)なども確認されており、当時の人々がこの地に長く定着し、一定の社会構造を持って暮らしていたことがうかがえます。この段階はまだ「国」ではありませんが、宇都宮が非常に古くから人々の生活の拠点であったことが分かります。

    【紀元前後〜】稲作の浸透:集落が増え、地域のまとまりが強くなる

    一言:米づくりは“人の集まり方”を変える

    解説: 稲作が広がるにつれて、土地や水の管理が重要になり、村どうしの協力体制やリーダー層が生まれやすくなります。宇都宮周辺もこうした社会変化の波を受け、集落のネットワークが段階的に広がっていったと考えられます。

    【3世紀】卑弥呼の時代:列島が“連合”へ向かう時代

    一言:宇都宮は「大和政権の一部」ではなく、“統合の波が届いていく東の地域”

    解説: 3世紀には、列島の西側で争いの後に女王(卑弥呼)を中心とした連合が成立したと史書に記されています。当時の政治的な中心は西日本側にあり、宇都宮を含む関東北部は、ヤマト政権の統合の波がゆっくりと波及していく地域だったと見るのが自然です。つまりこの時期の宇都宮は、「すでに国家に入っていた」わけではなく、のちに国家の枠組みへと入っていく“東の重要地域”として準備段階にあったと理解できます。

    【4〜6世紀】古墳時代:宇都宮にも“首長層”の存在がはっきり見える

    一言:古墳は“地域を動かす力”の証拠

    解説: 古墳時代は、巨大な古墳が各地に築かれ、政治的統合の進行が「見える形」で表れる時代です。宇都宮市内にも古墳時代後期に位置づけられる古墳が残っており、例えば上戸祭町の「大塚古墳」などは、地域社会をまとめる有力層が存在したことを考える重要な手がかりになります。こうした痕跡は、宇都宮周辺が畿内を中核とする広域な秩序と、段階的に結びついていった過程を示唆しています。

    【7世紀】古墳の終末:国家制度へ移る“直前”

    一言:お墓の権威の時代から、役所の行政の時代へ

    解説: 7世紀に入ると古墳文化は終末に向かい、政治の中心が「個人の首長の力」から「制度(法と行政)」へと移っていきます。宇都宮市下栗町の「下栗大塚古墳」などは、この過渡期の地域像を考える手がかりとなります。宇都宮の歴史は、ここを境に「地域の首長社会」から「国家制度に組み込まれる地域社会」へと、その性格を大きく変えていくことになります。

    【7世紀後半〜701年前後】下野(しもつけ)が制度化され、宇都宮は“国家の一部”として固定される

    一言:ここで初めて、宇都宮は“法律と役所”で動く国家の中に入る

    解説: 7世紀後半から701年前後にかけて、中央では律令国家の仕組みが整い、地方も国(くに)・郡(ぐん)などの単位で行政区分が敷かれます。宇都宮を含む地域は、下野国(しもつけのくに)という枠組みの中で位置づけられ、正式に国家の制度の中に組み込まれていきました。下野国の中心的な行政拠点(役所)として知られるのが、現在の栃木市にある下野国庁跡(しもつけこくちょうあと)です。このように役所の仕組みが整うことで、宇都宮は独立した「地域社会」から、日本という国家の行政システムの一部へと完全に固定されていきました。

    宇都宮はその後、なぜ重要になっていくのか

    宇都宮は、古代の時点から「東の入口」に近い絶好の立地条件を持っていました。律令国家の時代には、東国(関東・東北地方)の統治を進める上で、交通・物流・人の移動の要所となり、下野(宇都宮周辺)の価値はどんどん高まっていきます。

    のちの時代(中世から近世)において、宇都宮氏の台頭や宿場町としての発展など、宇都宮が「関東の要所」として存在感を増していく背景には、古代から続くこの地理的条件が深く関わっていると考えると、歴史の繋がりが理解しやすくなります。

    まとめ:宇都宮の“建国まで”は、次の3段階でつかめる

    • 縄文時代: 根古谷台遺跡などに見られる、古い定住と集落の形成。

    • 古墳時代: 古墳が示す首長層の存在と、ヤマト政権の広域秩序への接続。

    • 7世紀後半〜701年前後: 下野国として制度化され、明確に国家(日本)の一部となる。

    宇都宮は、最初から「東の要所」だったというよりも、日本という国家が形づくられていく過程で、東国を支える重要な地域として段階的に組み込まれていった――この見方が、史料や考古学に沿ったもっとも自然な理解と言えます。

  • 約3万年前から始まる宇都宮の歴史 〜旧石器時代の人々と暮らし〜

    私たちが暮らす宇都宮の地には、いったいいつから人が住み始めたのでしょうか?

    その答えは、なんと約3万年前(=紀元前28,000年頃)にまでさかのぼります。これはいわゆる旧石器時代後期と呼ばれる時代で、人類がまだ狩猟や採集をしながら生活していたころの話です。

     

    ◆ 日本列島と旧石器時代の始まり(約4万年前〜)

    今からおよそ4万年前(紀元前38,000年頃)、日本はまだ現在のような島国ではありませんでした。地球は氷河期(最終氷期)のまっただ中で、海面が今よりも100メートル以上低く、朝鮮半島や樺太(サハリン)と地続きだったため、動物や人間は大陸から歩いて日本へと渡ることができました。

    この時代に日本にやってきた人々は、黒曜石や石英などを加工した石器を使い、マンモスやナウマンゾウ、シカなどの大型動物を狩猟し、洞窟や岩陰に住みながら生活をしていたと考えられています。

     

    ◆ 宇都宮に刻まれた旧石器時代の記憶

    〜飛山城跡に見る、約3万年前の人類の足跡〜

    現在は中世の山城跡として知られる宇都宮市の飛山城跡(とびやまじょうあと)ですが、近年の発掘調査により、実はこの場所に約3万年前(紀元前28,000年ごろ)の旧石器時代にも人が訪れていたことが明らかになりました。

    調査では、礫器(れっき)や剥片石器(はくへんせっき)といった旧石器時代特有の石器が発見されています。これらは、人々がこの場所で狩猟や採集などの生活活動を行っていたことを示す確かな証拠です。

    当時の人々は、河岸段丘や台地のように水や資源に恵まれた地形を選んで、移動を繰り返しながら生活していたと考えられています。飛山城跡は、そうした環境条件を備えた場所であり、宇都宮市内で確認されている最古級の人類活動の痕跡として、非常に貴重な歴史的遺産となっています。(国指定史跡)

     

    ◆ 栃木県内の旧石器時代の代表例:星野遺跡(栃木市)

    宇都宮と同じく栃木県内では、栃木市の星野遺跡でも旧石器時代の文化が見つかっています。

    ここでは、

    • 岩や象牙で彫刻された像

    • 玉(ぎょく)などの装飾具
      が発見されており、当時の人々が「美しさ」や「信仰」にも関心を持っていたことがうかがえます。

    また、石器の形や使い方には地域ごとの特色が見られ、日本の東西で異なる文化が発展していたこともわかっています。

     

    ◆ 結語:宇都宮の地に宿る「最古の記憶」

    宇都宮の地に人類が最初に足を踏み入れたのは、今からおよそ3万年前の旧石器時代後期

    これは、宇都宮の歴史が縄文・弥生・古墳時代よりもはるか以前に始まっていたことを意味します。

    私たちが今暮らしているこの街の地中には、石器を握って獣を追っていた人々の記憶が静かに眠っているのです。

     

    宇都宮の歴史は、城や神社だけではありません。

    3万年の時を超えて、人と自然が共に生きた物語が、今もこの地に息づいています。

旧石器時代と宇都宮市・鍼灸の歴史
  • ◆ 約15,000年前(紀元前13,000年頃)〜 縄文時代のはじまり(草創期)

    地球の気温があたたかくなりはじめ、氷河がとけて海の水が増え、海面が上がった時代です。

    その結果、日本はまわりの大陸(中国や朝鮮など)から海によって切りはなされ、「日本列島」という島の形ができました。

    この時期から、縄文時代(草創期:紀元前13,000年〜紀元前10,000年頃)が始まったとされています。人々は石の道具を使いながら、森で動物を狩ったり、木の実を集めたり、海で魚をとって生活していました。

     

    ◆ 宇都宮でも人が住んでいた

    宇都宮でも、このころから人が住みはじめた証拠(あしあと)が見つかっています。

    代表的な場所:

    • 大谷寺洞窟遺跡(おおやじどうくついせき)/宇都宮市大谷町
      山の中の洞くつで、古い石の道具や土器(どき=粘土で作った器)が見つかっています。

    • 瑞穂野団地遺跡(みずほのだんちいせき)/瑞穂三丁目
      こちらでも古い時代の道具が見つかっていて、人が住んでいたことがわかります。

     

     

     

    ◆ 約10,000〜6,000年前(縄文早期)

    この時期になると、気候はさらに温暖となり、動植物も現在のような姿に近づいていきます。人々は狩猟や採集、漁労による生活を続けながら、さまざまな道具や装飾品を生み出しました。

    • 木の実や魚だけでなく、貝や動物の骨、角でアクセサリーを作るようになります。

    • 土偶(どぐう)という人の形をした粘土の人形もこのころ作られ始めました。お守りのような意味があったと考えられています。

     

    ◆ 約6,000〜5,000年前(縄文前期)

    • 集落(しゅうらく)=小さな村のような場所があらわれ、みんなで広場を囲んでくらすようになります。

    • 祭りやお祈りの行事も行われていたようです。

     

    宇都宮の代表的な遺跡:

    • 根古谷台遺跡(ねごやだいいせき)/上欠町

    広場をもつ計画的な集落跡が見つかっており、当時の社会のまとまりがうかがえる。

     

    このころは海の水がとても多くて、海の近くが今の栃木県の南部あたりまでせまっていたと考えられています。

    そのため、海の貝殻がたくさんつまった貝塚(かいづか)が見つかっています。(藤岡町や野木町など)。

     

     

     

    ◆ 約5,000〜4,000年前(縄文中期)

    • 人の数がふえて、大きな村が各地にできました。

    • 東日本では、貝を円形に並べた「環状貝塚(かんじょうかいづか)」が作られました。

    宇都宮市内の代表的な遺跡:

    • 竹下遺跡/竹下町

    • 御城田遺跡/駒生町

     

     

    ◆ 約4,000〜3,000年前(縄文後期)

    • 食べ物が豊かで、山の動物・魚・貝などをとって安定した生活ができていました。

    • このころから仮面(かめん)みたいな形の土で作った飾りも作られるようになります。

    • 歯をわざと抜く「抜歯(ばっし)」という風習もあったようです。

    • 土器の形やもようも、いろんなタイプに分かれるようになりました。

     

    宇都宮市内の代表的な遺跡:

    • 石川坪遺跡/針ヶ谷町

    • 刈沼遺跡/野高谷町

     

     

    ◆ 約3,000〜2,300年前(縄文晩期)

    • 東日本では「亀ヶ岡文化」と呼ばれる、赤い色の土器がよく使われるようになります。

    • 西日本では「黒っぽい土器」が広がり、東と西で文化のちがいがはっきりしてきます。

     

     

    ◆ 弥生時代と宇都宮

    その後、稲(こめ)を育てる農業の文化が西日本から伝わり、「弥生時代」に入っていきます。

     

    宇都宮では、

    • 旧富屋村(とみやむら)野沢地区から、弥生時代の村のあとが見つかっています。

    • ただし、宇都宮で見つかっている弥生時代の遺跡は約20か所と少なく、縄文時代にくらべて少ないです。

    これは、西日本に比べて縄文文化の影響が強く、農業文化(弥生文化)の広がりが遅かったからだと考えられています。

    実際に、紀元前100年頃になってようやく宇都宮でも弥生文化の本格的な広がりが始まったと推測されています。

     

    まとめ

    • 宇都宮市内では、縄文時代の遺跡が100か所以上発見されており、この地が長く人々の生活の舞台となってきたことを示しています。

    • 土の中から見つかった土器や石の道具、仮面や人形が、そのくらしを教えてくれます。

縄文時代と宇都宮市・鍼灸の歴史
  • 弥生時代と宇都宮のはじまり

    ― 米作りと神話、そして医療文化が交差する時代 ―

    ■ 紀元前400年頃:稲作の伝来と五行思想の広がり

    弥生時代は、朝鮮半島を経由して伝わった「水稲耕作」の普及によって幕を開けました。それまでの縄文的な狩猟・採集生活に代わり、集落ごとの田畑経営が始まり、定住化が進行。宇都宮周辺でも、この時期の生活痕跡が「山崎北遺跡」などから確認されています。

    同時期、中国では「五行説」が体系化され、木・火・土・金・水の五つの要素で自然や人体を捉える思想が定着しました。この考えは、後の鍼灸理論(経絡・臓腑理論)の基盤となり、日本にも伝来してゆきます。

    ■ 弥生後期:大国主命の神話と“神々の時代”の始まり

    島根・出雲を中心に語られた「国づくり神話」では、大国主命(おおくにぬしのみこと)が登場し、のちに「大黒様」として全国に信仰が広がります。この物語は、地域社会の秩序形成や権威の正当化に深く関与しました。
    宇都宮でも、後世の二荒山神社の祭神に彼の姿が重ねられ、出雲神話と東国の結節点としての歴史的意味を持ちます。

    ■ 紀元前221年:中国の統一と『黄帝内経』の成立

    中国・秦が初の統一国家となった紀元前221年、この時期に医療体系も整備されます。特に『黄帝内経』は、東洋医学の根本原典として成立し、後に日本の鍼灸文化に強い影響を及ぼします。

    ※ 宇都宮地域での東洋医学的実践の証拠は後世に見られますが、その基礎はこの弥生期における思想的伝播から始まっていたと考えられます。

    ■ 豊城入彦命と宇都宮伝承:伝説が語る政治的進出

    『日本書紀』によると、崇神天皇の第一皇子である豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が、朝廷の命を受けて東国へ赴いたとされます。
    宇都宮では:

    • 「下の宮(現パルコ前)」に神体をまつり、

    • 「城址公園」に仮住まいを構え、

    • 雀宮や江曽島の原住民を鎮圧し、
      約3年間、毛野国の統治を行ったと伝えられます。

    これは、大和政権による東方進出を神話化したもので、宇都宮がその拠点とされたことの象徴でもあります。

    ■ 紀元57年:奴国の外交と金印『漢委奴国王』

    西暦57年、北部九州の奴国王が中国後漢へ朝貢し、金印を受け取ったという外交記録が残されています(『後漢書』)。この外交開始が、のちの卑弥呼による遣使へとつながります。

    ■ 紀元238年:卑弥呼の登場と外交

    『魏志倭人伝』によれば、倭国は100余国に分かれ争っていたが、女王・卑弥呼の登場によって邪馬台国が成立し、魏に朝貢。ここで「親魏倭王」の称号を授かり、日本初の王権外交が文書に登場します。

    このころの宇都宮でも、青銅器祭祀の痕跡(雀宮の二軒屋遺跡など)が発見され、宗教的儀式が行われていたことが推定されます。

    ■ 宇都宮に残る弥生遺跡:農耕と祭祀の記録

    宇都宮市内で見つかった主な弥生時代遺跡:

    • 山崎北遺跡(駒生町):住居跡と土器出土(農耕定住の証)

    • 二軒屋遺跡(雀宮町):青銅器を用いた祭祀の痕跡

    これらは、宇都宮地域が弥生文化の重要な拠点であったこと、農業と信仰が共存していたことを証明しています。

    まとめ:弥生時代の宇都宮と その文化の意味

    今から2,000年以上前の弥生時代、宇都宮の地域でも、人々のくらしが大きく変わっていきました。

    まず、いちばん大きな変化は「お米作り」が始まったことです。それまでの人びとは、山や川で動物をとったり、木の実を拾って生活していましたが、お米を育てる技術が中国や朝鮮から伝わると、村をつくってみんなで田んぼを耕すようになります。宇都宮でも、山崎北遺跡などから、こうした農業のあとの見つかっている場所があります。

    また、人と人との関係も変わっていきました。村のまわりに堀(ほり)を作ったり、お墓に特別な形をつけるようになったのは、「みんなをまとめるリーダー」や「力のある人」が出てきたからだと考えられています。そうした変化は、宇都宮でもあったのではないかと考えられています。

    このころ中国では、人の体の働きや自然のしくみを「木・火・土・金・水」の5つに分けて考える「五行説(ごぎょうせつ)」という考え方が広まりました。これは、のちの東洋医学(とうよういがく)――たとえば、鍼(はり)やお灸(きゅう)のような治療のもとになったものです。日本にも少しずつ伝わっていき、宇都宮でも後の時代において、健康や体のことを考える知恵として広まっていきました。

    また、宇都宮にはとても古い伝説があります。『日本書紀』という歴史の本によると、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)という神話の人物が、大和(奈良)から宇都宮にやってきて、周辺の人たちをまとめたとされています。いまの宇都宮城跡や、パルコ前の「下の宮」といった場所は、その伝承と関わりがあると言われています。

    さらに、雀宮町の二軒屋遺跡では、お祭りで使ったと思われる青銅器(せいどうき)のかけらが見つかっています。昔の人たちが、自然や神さまに祈るために、道具を使って大切な儀式をしていたことがわかります。こうした文化は、後の二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)のような信仰の場につながっていきます。

    このように、弥生時代の宇都宮は――

    • お米作りが広まり、みんなで力を合わせてくらす村が生まれ、

    • まわりを守るしくみや、リーダー的な人が登場し、

    • 体や自然のことを考える医学の考えも、少しずつ伝わり、

    • 神話やお祭りを通じて、土地と人のつながりが育まれ、

    そうして、後の宇都宮の歴史につながる土台が、この時代に少しずつ形づくられていったのです。

弥生時代と宇都宮市・鍼灸の歴史

参照文献・資料一覧

  • 徳田浩淳『宇都宮の歴史』

  • 徳田浩淳『宇都宮郷土史(再編集復刻版)』

  • 『宇都宮の歴史』角川日本地名大辞典編(角川書店)

  • 宇都宮市史 第一巻「原始・古代編」

  • 宇都宮市史 第三巻

  • 宇都宮市史 第六巻「近世・通史編」

  • 『中世宇都宮氏』栃木県立博物館(企画展示・図録資料)

  • 国指定史跡「うつのみや遺跡の広場」(宇都宮市・聖山公園)

  • Wikipedia(項目:宇都宮市・宇都宮氏・豊城入彦命 ほか)

  • 古今宗教研究所(各神社由緒、宗教文化研究資料)