宇都宮市の歴史
-
はじめに
今の宇都宮市は、たくさんの人が暮らすにぎやかな町ですが、その土地の歴史は何億年も前の地球の時代までさかのぼることができます。
ここでは、宇都宮市の土地がどのようにできてきたのかを、紹介していきます。
宇都宮市の歴史は、現代の都市形成にとどまらず、はるか太古の自然環境の変遷や人類活動の痕跡にまでさかのぼることができます。本稿では、地球規模の地殻変動や日本列島の形成、さらに宇都宮地域における人類の生活の始まりまでを、年代を追って紹介します。
◆ 約2億2000万年前:動物の中で哺乳類が生まれはじめた
このころ、地球には「パンゲア」というひとつにつながった大きな大陸がありました。
「アデロバシレウス」という、今のネズミのような小さな動物があらわれました。これが、のちの哺乳類(ほ乳類)のもとになったと考えられています。
宇都宮地域も、この頃はまだ現在の日本列島としての形を成しておらず、海底または大陸縁辺の地質活動の一部を構成していました。
◆ 約6550万年前:恐竜がいなくなり、小さな動物が生きのこった
とても大きな隕石が地球に衝突、火山活動、気候変動により、非鳥類型恐竜がいなくなった時代です。
その後、小さな動物たち(ほ乳類)が元気に生きのこり、たくさんの種類に分かれ生態系の中核を担う存在へと進化します。
宇都宮の土地では、このころに火山の灰や小さな石がたくさん積もりはじめました。これが、後に「大谷石」という特別な石になるもとです。
恐竜絶滅直後には、キモレステスなどの小型有胎盤哺乳類が広がり、のちの霊長類・齧歯類などの進化につながる基盤を築きました。
◆ 約2400万年前:火山のはたらきで大谷石ができた
日本列島の本格的な地質的独立が進み、火山活動が活発化した時期です。
宇都宮市周辺では那須火山帯に由来する火山灰や石のかけらが地面にたくさんたまっていきました。
それが長い時間をかけてかたまり、「大谷石」という、緑色っぽくてやわらかい石の地層が形成されました。
大谷石は、後の江戸〜明治時代にかけて、蔵(ものをしまう建物)や教会のかべなどの建材として広く利用されました。
大谷石は淡緑色を帯びた軟質凝灰岩で、加工のしやすさと断熱性に優れています。特に江戸期以降の「石の街・宇都宮市」を象徴する建築資材として重宝されました。
-
宇都宮に人がすみ始めたころ
日本が大陸とつながっていた時代
今から約4万年前の地球は、「氷河時代」と呼ばれる、とても寒い時代でした。
たくさんの水が氷になっていたため、海の水が今よりもずっと少なく、海の水位は下がっていました。
そのため、日本は今のような島ではなく、中国や朝鮮半島などの大陸と地続きの場所がいくつかありました。このころ、動物や人間が大陸から日本に渡ってきたと考えられています。
人類の移動は、20万年以上前から段階的に起こったとする説もありますが、確実な人類の定住の痕跡が確認できるのは、約4万年前以降のことです。
石の道具と人々のくらし
この時代は「旧石器時代(きゅうせっきじだい)」と呼ばれています。
まだ農業はなく、石をけずって作った道具(石器)を使いながら、動物を狩ったり、木の実をひろって生活していました。
また、このころの人たちは、
動物の骨や石で飾りや道具を作る
マンモスの牙で動物の形を彫る
など、道具だけでなくものを作る文化も生まれていたと考えられています。
栃木県にも人が住んでいた
栃木県では、「星野遺跡」(栃木市)という場所で、旧石器時代の道具や石が見つかっています。
これは、とても昔からこの地域に人が住んでいたことを示す、大切な証拠です。
宇都宮市でも人のくらしの跡が
宇都宮市では、「飛山城跡」という歴史的な場所から、約3万年前の石の道具(石器)が見つかっています。
このことから、宇都宮には約3万年前には人がすみ始めていたと考えられています。
※「飛山城跡」はもともと中世の山城として知られていますが、その場所にもっと昔の人のくらしのあとがあったことがわかったのです。
まとめ
・宇都宮の土地には、約3万年前から人が住んでいたと考えられています。
・そのころの人たちは、石の道具を使って、狩りや食べ物集めをして生活していました。
・宇都宮市の「飛山城跡」や、栃木市の「星野遺跡」などからは、そうしたくらしのあとが見つかっています。
-
◆ 約15,000年前(紀元前13,000年頃)〜 縄文時代のはじまり(草創期)
地球の気温があたたかくなりはじめ、氷河がとけて海の水が増え、海面が上がった時代です。
その結果、日本はまわりの大陸(中国や朝鮮など)から海によって切りはなされ、「日本列島」という島の形ができました。
この時期から、縄文時代(草創期:紀元前13,000年〜紀元前10,000年頃)が始まったとされています。人々は石の道具を使いながら、森で動物を狩ったり、木の実を集めたり、海で魚をとって生活していました。
◆ 宇都宮でも人が住んでいた
宇都宮でも、このころから人が住みはじめた証拠(あしあと)が見つかっています。
代表的な場所:
大谷寺洞窟遺跡(おおやじどうくついせき)/宇都宮市大谷町
山の中の洞くつで、古い石の道具や土器(どき=粘土で作った器)が見つかっています。瑞穂野団地遺跡(みずほのだんちいせき)/瑞穂三丁目
こちらでも古い時代の道具が見つかっていて、人が住んでいたことがわかります。
◆ 約10,000〜6,000年前(縄文早期)
この時期になると、気候はさらに温暖となり、動植物も現在のような姿に近づいていきます。人々は狩猟や採集、漁労による生活を続けながら、さまざまな道具や装飾品を生み出しました。
木の実や魚だけでなく、貝や動物の骨、角でアクセサリーを作るようになります。
土偶(どぐう)という人の形をした粘土の人形もこのころ作られ始めました。お守りのような意味があったと考えられています。
◆ 約6,000〜5,000年前(縄文前期)
集落(しゅうらく)=小さな村のような場所があらわれ、みんなで広場を囲んでくらすようになります。
祭りやお祈りの行事も行われていたようです。
宇都宮の代表的な遺跡:
根古谷台遺跡(ねごやだいいせき)/上欠町
広場をもつ計画的な集落跡が見つかっており、当時の社会のまとまりがうかがえる。
このころは海の水がとても多くて、海の近くが今の栃木県の南部あたりまでせまっていたと考えられています。
そのため、海の貝殻がたくさんつまった貝塚(かいづか)が見つかっています。(藤岡町や野木町など)。
◆ 約5,000〜4,000年前(縄文中期)
人の数がふえて、大きな村が各地にできました。
東日本では、貝を円形に並べた「環状貝塚(かんじょうかいづか)」が作られました。
宇都宮市内の代表的な遺跡:
竹下遺跡/竹下町
御城田遺跡/駒生町
◆ 約4,000〜3,000年前(縄文後期)
食べ物が豊かで、山の動物・魚・貝などをとって安定した生活ができていました。
このころから仮面(かめん)みたいな形の土で作った飾りも作られるようになります。
歯をわざと抜く「抜歯(ばっし)」という風習もあったようです。
土器の形やもようも、いろんなタイプに分かれるようになりました。
宇都宮市内の代表的な遺跡:
石川坪遺跡/針ヶ谷町
刈沼遺跡/野高谷町
◆ 約3,000〜2,300年前(縄文晩期)
東日本では「亀ヶ岡文化」と呼ばれる、赤い色の土器がよく使われるようになります。
西日本では「黒っぽい土器」が広がり、東と西で文化のちがいがはっきりしてきます。
◆ 弥生時代と宇都宮
その後、稲(こめ)を育てる農業の文化が西日本から伝わり、「弥生時代」に入っていきます。
宇都宮では、
旧富屋村(とみやむら)野沢地区から、弥生時代の村のあとが見つかっています。
ただし、宇都宮で見つかっている弥生時代の遺跡は約20か所と少なく、縄文時代にくらべて少ないです。
これは、西日本に比べて縄文文化の影響が強く、農業文化(弥生文化)の広がりが遅かったからだと考えられています。
実際に、紀元前100年頃になってようやく宇都宮でも弥生文化の本格的な広がりが始まったと推測されています。
まとめ
宇都宮市内では、縄文時代の遺跡が100か所以上発見されており、この地が長く人々の生活の舞台となってきたことを示しています。
土の中から見つかった土器や石の道具、仮面や人形が、そのくらしを教えてくれます。
-
弥生時代と宇都宮のはじまり
― 米作りと神話、そして医療文化が交差する時代 ―
■ 紀元前400年頃:稲作の伝来と五行思想の広がり
弥生時代は、朝鮮半島を経由して伝わった「水稲耕作」の普及によって幕を開けました。それまでの縄文的な狩猟・採集生活に代わり、集落ごとの田畑経営が始まり、定住化が進行。宇都宮周辺でも、この時期の生活痕跡が「山崎北遺跡」などから確認されています。
同時期、中国では「五行説」が体系化され、木・火・土・金・水の五つの要素で自然や人体を捉える思想が定着しました。この考えは、後の鍼灸理論(経絡・臓腑理論)の基盤となり、日本にも伝来してゆきます。
■ 弥生後期:大国主命の神話と“神々の時代”の始まり
島根・出雲を中心に語られた「国づくり神話」では、大国主命(おおくにぬしのみこと)が登場し、のちに「大黒様」として全国に信仰が広がります。この物語は、地域社会の秩序形成や権威の正当化に深く関与しました。
宇都宮でも、後世の二荒山神社の祭神に彼の姿が重ねられ、出雲神話と東国の結節点としての歴史的意味を持ちます。■ 紀元前221年:中国の統一と『黄帝内経』の成立
中国・秦が初の統一国家となった紀元前221年、この時期に医療体系も整備されます。特に『黄帝内経』は、東洋医学の根本原典として成立し、後に日本の鍼灸文化に強い影響を及ぼします。
※ 宇都宮地域での東洋医学的実践の証拠は後世に見られますが、その基礎はこの弥生期における思想的伝播から始まっていたと考えられます。
■ 豊城入彦命と宇都宮伝承:伝説が語る政治的進出
『日本書紀』によると、崇神天皇の第一皇子である豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)が、朝廷の命を受けて東国へ赴いたとされます。
宇都宮では:「下の宮(現パルコ前)」に神体をまつり、
「城址公園」に仮住まいを構え、
雀宮や江曽島の原住民を鎮圧し、
約3年間、毛野国の統治を行ったと伝えられます。
これは、大和政権による東方進出を神話化したもので、宇都宮がその拠点とされたことの象徴でもあります。
■ 紀元57年:奴国の外交と金印『漢委奴国王』
西暦57年、北部九州の奴国王が中国後漢へ朝貢し、金印を受け取ったという外交記録が残されています(『後漢書』)。この外交開始が、のちの卑弥呼による遣使へとつながります。
■ 紀元238年:卑弥呼の登場と外交
『魏志倭人伝』によれば、倭国は100余国に分かれ争っていたが、女王・卑弥呼の登場によって邪馬台国が成立し、魏に朝貢。ここで「親魏倭王」の称号を授かり、日本初の王権外交が文書に登場します。
このころの宇都宮でも、青銅器祭祀の痕跡(雀宮の二軒屋遺跡など)が発見され、宗教的儀式が行われていたことが推定されます。
■ 宇都宮に残る弥生遺跡:農耕と祭祀の記録
宇都宮市内で見つかった主な弥生時代遺跡:
山崎北遺跡(駒生町):住居跡と土器出土(農耕定住の証)
二軒屋遺跡(雀宮町):青銅器を用いた祭祀の痕跡
これらは、宇都宮地域が弥生文化の重要な拠点であったこと、農業と信仰が共存していたことを証明しています。
まとめ:弥生時代の宇都宮と その文化の意味
今から2,000年以上前の弥生時代、宇都宮の地域でも、人々のくらしが大きく変わっていきました。
まず、いちばん大きな変化は「お米作り」が始まったことです。それまでの人びとは、山や川で動物をとったり、木の実を拾って生活していましたが、お米を育てる技術が中国や朝鮮から伝わると、村をつくってみんなで田んぼを耕すようになります。宇都宮でも、山崎北遺跡などから、こうした農業のあとの見つかっている場所があります。
また、人と人との関係も変わっていきました。村のまわりに堀(ほり)を作ったり、お墓に特別な形をつけるようになったのは、「みんなをまとめるリーダー」や「力のある人」が出てきたからだと考えられています。そうした変化は、宇都宮でもあったのではないかと考えられています。
このころ中国では、人の体の働きや自然のしくみを「木・火・土・金・水」の5つに分けて考える「五行説(ごぎょうせつ)」という考え方が広まりました。これは、のちの東洋医学(とうよういがく)――たとえば、鍼(はり)やお灸(きゅう)のような治療のもとになったものです。日本にも少しずつ伝わっていき、宇都宮でも後の時代において、健康や体のことを考える知恵として広まっていきました。
また、宇都宮にはとても古い伝説があります。『日本書紀』という歴史の本によると、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)という神話の人物が、大和(奈良)から宇都宮にやってきて、周辺の人たちをまとめたとされています。いまの宇都宮城跡や、パルコ前の「下の宮」といった場所は、その伝承と関わりがあると言われています。
さらに、雀宮町の二軒屋遺跡では、お祭りで使ったと思われる青銅器(せいどうき)のかけらが見つかっています。昔の人たちが、自然や神さまに祈るために、道具を使って大切な儀式をしていたことがわかります。こうした文化は、後の二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)のような信仰の場につながっていきます。
このように、弥生時代の宇都宮は――
お米作りが広まり、みんなで力を合わせてくらす村が生まれ、
まわりを守るしくみや、リーダー的な人が登場し、
体や自然のことを考える医学の考えも、少しずつ伝わり、
神話やお祭りを通じて、土地と人のつながりが育まれ、
そうして、後の宇都宮の歴史につながる土台が、この時代に少しずつ形づくられていったのです。
参照文献・資料一覧
徳田浩淳『宇都宮の歴史』
徳田浩淳『宇都宮郷土史(再編集復刻版)』
『宇都宮の歴史』角川日本地名大辞典編(角川書店)
宇都宮市史 第一巻「原始・古代編」
宇都宮市史 第三巻
宇都宮市史 第六巻「近世・通史編」
『中世宇都宮氏』栃木県立博物館(企画展示・図録資料)
国指定史跡「うつのみや遺跡の広場」(宇都宮市・聖山公園)
Wikipedia(項目:宇都宮市・宇都宮氏・豊城入彦命 ほか)
古今宗教研究所(各神社由緒、宗教文化研究資料)